「私は無宗教です」よく聞く言葉です。
ずいぶん前のことですが、こんなお話しを聞きました。私は無宗教だと常に申されていた方がおられました。その方の娘さんが白血病にかかり病が進行するなかでこんな問いをお父さんに投げかけました。「私はお父さんより早く死ぬの?」そのいのちがけの問いに何も応えることができなかったそうです。病が進行し力を振りしぼり、最後の問いをしました。「お父さん、私は死んだらどうなるの?」と。
すると「心配しなくてもいいよ。おじいちゃん、おばあちゃんいる仏さまの国にうまれていくよ、お父さんもいつかいくから待っててね。」
これは宗教では無いのでしょうか?無宗教ではいのちの解決はできないのかもしれません。また、死んだらおしまいだという言葉も耳にしますが、今私たちはしまいになるいのちを生きているのでしょうか?
それでは、「宗教とはなに?」と問われたら何とお応えになりますか。人によって宗教のとらえ方も違いますから、100人に聞いたら100の応えがあるのかもしれません。
少し前の事ですが、中学生の仏教の研修会の中で「宗教」の意味を文字のうえから考える時間を共にしました。
宗教の「シュウ(宗)」は他に「ムネ」と読みます。ムネという他の字を挙げると「胸」「棟」「旨」という字があり、意味を考えてもらうと「大切なもの」「中心」「支え」そして「要」という言葉を出してくれました。
次に「教(キョウ)」という字の他の読み方を尋ねると「おしえる」と応えてくれ「他に読み方がある?」と問うと少し考え込んでしまいました。
私たちはやはり「おしえる」と読んでしまいます。「おそわる」と読むことが難しいのかもしれませんし、宗教的な意味においても「おそわる」と読まなければならないのでしょう。
また、漢字には同じような意味の漢字を並べて2字の熟語になる事が多いようです。もちろん例外もたくさんありますが、例えば「マエ」という字と「ススム」という字で「前進」となります。「教」と似た意味の漢字を使って2字の言葉を考えてもらうと「教育」「教導」「教授」「教養」「教諭」を出してくれました。
宗教とは私にとって「大切なもの」「中心」「支え」「要」であり、教わり、育てられ。導かれ、授かり、養われ、諭されるものであると確認したことであります。
昨年、私は弟を亡くしました。10年前に大腸癌の手術をし、人工肛門となりましたが懸命に自分のいのちを生きておりました。しかし、肺と骨に癌の転移があり、最後は肝臓癌を患いました。医者からは黄疸が出たら1ヶ月のいのちと言われ、10月の初旬に黄疸が出たと連絡があり、「あと1ヶ月のいのちか大切に生きろよ」と伝えたことです。弟は18日に亡くなり、1ヶ月も生きる事ができなかったですが、大切な事を家族に伝え、家族に見守られながらいのちを終えていきました。教えを通して死の解決をしっかりとしておりました。
また、死の解決だけが宗教ではありません。今、ここに生きていることを問うていくのが宗教であり、宗教とは私たちが解決できない「生老病死」(四苦)の解決をしてくださるのです。
私達は自分の人生でありながら、思い通りにならない人生を生きております。病気になるかもしれませんし、事故にあうかもしれません。また人と人との色んなトラブルにもあっていき、アタフタアタフタしながら生きています。
また、一人一人が他人には言えない苦悩や悲しみ、辛さを抱えて生きております。そんな時に温かく、優しく包んでくださる仏さま(まこと)にであうことができたら、安心してアタフタしながら人生を歩んでいけるのでしょう。
どうぞ、「大切なもの」「中心」「支え」「要」であり、教わり、育てられ、導かれ、授かり、養われ、諭されるものにであってください。
東住吉区寺院の会所属の寺院はお寺で様々な宗教行事を開催しております。
どうぞ、お気軽にお寺に来て行事に参加をしてみてください。
皆さまのお参りを心よりお待ちしております。